2010年01月26日

金は天下の回りもの

「金は天下の回りもの」

広辞苑によると、

『金銭は一人の所にとどまってはいない。貧富は固定したものではない。
「金は天下の回り持ち」とも。』

とある。

個人的には、
お金は使ってもいつか返ってくる。
使いどころを間違えるな。
と理解していた。

具体的にいうと、
友達付き合いにゼニ惜しみをするな。
勉強の投資に金を惜しむな。
というような理解をしていた。

さて、今日、ふと思ったのだが、

我々の貯金。
これは表向きは回ってないが、
銀行などに預けているとそれが投資資金に使われて
実は「天下の回りもの」としての役割を果たしていた。

それが、昨今、「投資先」とやらにこまり

(つまりは、簡単にゼニもうけができそうな
 投資先という「夢の存在(?)」がなくなり、
 夢の替わりに必要な知恵もなく…)

金が回らなくなったのがこの不況のようである。

いま民主党のいっている「個人に金を回す」というのは、
投資で回らないのなら「個人消費」という形で回すなら
経済はもっと好転するという事だろう。

そんなに簡単なモノなのか、とはちと思うが
理屈の上からは合っているようにも思う。

今話題の鳩山首相家の金の回り方からすればまことに知れたものだが
自分の日々の暮らしからみればそれなりにまとまった額ではある、
親の残してくれたものに接して、そう思った次第ではある。

質素を生き様としていたのはわかるが
もっと自分のために使ってくれればよかったのに…。
posted by コンカレイド at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年01月02日

感動の対価

感動の対価という事を考えた
これはサービス業の原点という意味としてである。

まず、例を挙げてみる

大道芸人がなにか芸をしていたとする。

つまらない芸にはお金を払おうとはおもわないが
自分が感動すれば、
お金を払いたいという気持ち
は自発的に心に内発し、内包されるように思う。

だからそこで芸人が帽子でも差し出せば
それに触発されて包まれていた自分の心の包みがほどけ
帽子にコインなり札なりを投げ入れることになる。

そこには、相手の芸と相手を認める事と、
相手を認めている自分(認める能力のある満足感を含めて)
を認める事

また
相手への評価として対価を投じる事によって
自分の感動の再確認をする事
が含まれているように思う。

ひろく考えると
「サービス」が有価であり得ること
つまり、サービス業で食えるという事
はここに原点があるのではないかと思う。
posted by コンカレイド at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記