2008年05月08日

中庸という事

中庸というのは、個人的には「バランス」と理解しています。

これは、私の理解する限り、孔子の言われる事の骨格をなす事の一つです。
実務的には、これは、極論を吐くなということであり、
あるいは多面的なものの見方をせよということです。

自分の主張が100%正しいとは思うなといってもよろしい。


これは、「何事も誤りのないことはない。『何事も誤りはない』という事も
含めてね」というような事ではありません。

「『何事も誤りはない』という事自体も含めて、何事もあやまりという事はない」
というのは、行きすぎであって、表現に含まれる麻薬に害された考え方です。
本末転倒といってもよろしい。麻薬でなくて欠陥と言っても毒と言ってもよい。

つまり、何かの積極的考え方を表現するためのものが「表現」であって、
「表現」自体に考え方が左右されてはならないということです。


ちょいと、横道にそれましたが、

中庸とは、
ある一つのものの見方の価値や効果を考えるとき、それとは違うもの
(対立する必要はなく、対をなすものである必要もない)
と比べながらバランスをとった考え方をとらねば道を誤る
という事でしょう。

一つの価値観で世界を席巻してはならないとも言えるでしょう。
いまのグローバリズムは、世界を席巻しつつあるが故にアブナイ
とも言えるかもしれません。

全体主義は道を過ちました。共産主義も道を過ちました。

そういう意味では多数決というのはよく考えられた手法であるかもしれません。
但し、少数意見に十分に配慮するという前提が付いた場合であり、
大抵の場合になかなかそうは行かない。

ただし、全会一致よりはよほど安全だとも言えるでしょう。
調整を十分に行なわせる作用も全会一致にはある。
ただし、それと同じくらいかそれ以上に
全会一致が形骸化しまい、独裁の大義名分になりはてる危険がある。


中庸

という価値基準、判断基準、行動指針は
経営でも、人生でも、政治でも

まず心に留め置くべき一番の基準ではないかと思います。
posted by コンカレイド at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記